日本を代表する人気お笑いタレントとして活躍する明石家さんまさん。
そんな明石家さんまさんですが、実は壮絶な生い立ちを経験しているのでしょうか。
今回は、明石家さんまさんの幼少期から芸能界デビューまでの生い立ちについて詳しく解説していきます。
明石家さんまの幼少期は?

笑いの天才として知られる明石家さんまさん。
そんな明石家さんまさんですが、幼少期はどのような生活を送っていたのでしょうか。
明石家さんまさんの本名は、杉本 高文(すぎもと たかふみ)さんです。
1955年(昭和30年)7月1日に、和歌山県東牟婁郡古座町(現・串本町)で生まれました。
しかし、明石家さんまさんの幼少期は決して平坦なものではありませんでした。
3歳の時に実母が病死しました。
その後、父親が再婚しましたが、継母との間には距離があり、継母が「うちの子はこの子(連れ子の弟)だけや……」と漏らす言葉を聞いて、兄と二人で泣いていたというエピソードがあります。
さらに、後にもうけた実の弟を火事で亡くすという悲劇にも見舞われています。
明石家さんまさんの幼少期は、家族との別れや複雑な家庭環境など、多くの困難を経験したようです。
その経験も含めて「生きてるだけで丸もうけ」という言葉を明石家さんまさんは皆んなに伝えていってます。
娘さんの命名 (いまる)にも深い意味がありました。
スクールカウンセラー吉 澤 克 彦先生の令和3年2月から引用させて頂きました。
彼自身も 520 人が亡くなられた墜落事故のジャンボジェットに乗る予定でしたが急に予
定が早まり、その前の飛行機に乗り命拾いをしたという出来事がありました。
こういう体験をしてきた彼は、いつしかある言葉を大切にするようになりました。
それは、「生きているだけで丸もうけ」という言葉。
出典:カウンセル便り11号より
「生きてるだけでまるもうけ」を心に刻み生きてることの大切さを大事にしていきましょう!
明石家さんまの学生時代は?

困難な幼少期を経験した明石家さんまさん。
そんな明石家さんまさんですが、学生時代はどのような生活を送っていたのでしょうか。
明石家さんまさんは、奈良市立鼓阪小学校、奈良市立三笠中学校、奈良県立奈良商業高等学校に通いました。
小学生時代、奈良市立鼓阪小学校ではムササビを捕まえた少年として話題になり、捕まえたムササビは学校に展示されていたそうです。
また、当時から人を笑わせる素質はあり、植木等の物まねをしていたといいます。
高校時代はやんちゃな面が目立ち、授業を抜け出してパチンコに行くこともあったようです。
そんな中、授業中に桂三枝(現・六代目桂文枝)の落語のコピーや自作の漫談を披露してクラスメイトを笑わせており、その才能を見た英語教師に「杉本、おまえ、吉本入れ」と勧められたことが、芸能界を志すきっかけの一つとなりました。
明石家さんまさんの学生時代は、やんちゃな面もありながら、すでに人を笑わせる才能を発揮していたようです。
明石家さんまの芸能界デビューは?

学生時代から笑いの才能を見せていた明石家さんまさん。
そんな明石家さんまさんですが、どのようにして芸能界デビューを果たしたのでしょうか。
明石家さんまさんは、1974年2月、高校3年の時に吉本興業所属の落語家、2代目笑福亭松之助への弟子入りを決意します。
入門の動機は、花月劇場で見た松之助の新作落語に感銘を受けたからだといいます。
しかし、内弟子としての生活が始まって半年も経たないうちに、当時交際していた女性とともに上京してしまうという「さんま駆け落ち事件」が起こります。
東京での生活はうまくいかず、一時的に戻った際、師匠の松之助はさんまさんを一切叱ることなく、むしろ激励しました。
この師の温情に触れ、明石家さんまさんは弟子としての道に戻ることを決意します。
その後、松之助の計らいにより、落語家としてではなくタレントとして再出発することになり、師匠の本名「明石徳三」に由来する「明石家」という亭号を名乗るようになります。
明石家さんまさんの芸能界デビューは、紆余曲折を経ながらも、師匠の温かい支援のもとで実現したようです。
まとめ
明石家さんまさんの生い立ちは、幼少期の家族との別れや複雑な家庭環境など、多くの困難を経験しました。
学生時代には、やんちゃな面もありながら、すでに人を笑わせる才能を発揮していました。
芸能界デビューは、紆余曲折を経ながらも、師匠の温かい支援のもとで実現し、現在の「明石家さんま」という芸名が誕生しました。
この記事を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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